豊臣秀吉の時代、猫を戦場に連れて行った武将がいたのを知っていますか?
この記事では
その武将、島津義弘ってどんな人?
なぜ猫を連れて行ったの?
その後どうなったの?
についてお話します。
島津義弘(しまずよしひろ)ってどんな武将?
島津義弘は戦国時代の終わり頃、薩摩(さつま、今の鹿児島県)周辺を治めていた武将です。
九州のほぼ全部が領土になった時期もありました。
とてもいくさ上手で「鬼島津(おにしまず)」と呼ばれるほどでした。
後の「関ケ原の戦い」では敵に囲まれた際に、あえて前進して敵陣を突破しました。
朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)とは?
豊臣秀吉は日本の天下統一後、今度は明(みん、今の中国の古い国名)も手に入れようと、1592年5月に武将たちを朝鮮半島へ送り、いくさを始めます。
1593年8月に休戦しますが、1597年3月に再びいくさになり、決着がつく前に秀吉が亡くなったことで、1598年12月に日本は兵を撤収しました。
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)や唐入り(からいり)と呼ぶこともあります。
島津義弘はなぜ猫を連れて行ったの?

この当時、今のように持ち歩ける時計はありませんでした。
そこで島津義弘は、猫の目が夜になると丸くなることを利用して時間の目安にし、特に夜襲(敵が夜に攻撃してくること)を警戒したといいます。
また、猫は夜の見張りの役も任されていました。
猫はどうなったの?
島津義弘は7匹の猫を連れていき、そのうち日本に帰ってこられたのは2匹だといわれています。
その2匹は「シロ」と「ヤス」という名前だったそうです。
「ヤス」は茶トラの猫で、義弘の次男の久保(ひさやす)が自分の名前から一文字を付けて、特にかわいがっていたといいます。
このことから、今でも一部の地域では茶トラの猫を「ヤス猫」と呼ぶそうです。
この2匹はその後、鹿児島城の城内にあった「猫神社(ねこがみしゃ)」に祀られました。
明治維新で島津家が鹿児島城を離れたとき、島津家の別邸があった「仙巌園(せんがんえん)」に移転して、今も猫好きの人が多く訪れる人気の神社となっています。

この話は本当?
じつは、この島津義弘と猫のお話ははっきりとした記録が残っていません。
島津義弘が朝鮮出兵に参加していたことはいろいろな記録に残っていますが、「義弘が連れて行った猫」について書かれた当時の日記や手紙は見つかっていないのです。
そのため、江戸時代になって作られたお話だ、という人もいます。
ただ、作られたお話だったとしても、島津義弘と猫について、なにか元になるような話が伝わっていたのかもしれません。
歴史は「うそ」「本当」だけではなく、作られたお話にも本当にあったことが反映されていることが多いのです。
もし、島津義弘と猫について書かれた記録が見つかれば、大発見です。
このお話が今に伝えること
島津義弘は、強いだけではなくとても知恵のある武将でした。
猫とのお話からも、まわりのものをよく見て工夫しながら行動していたことがわかります。
また、人と動物が力を合わせていたことも感じられます。
猫は兵の食べ物を狙う鼠(ねずみ)を退治する役目もあったでしょう。
そしてそういった働きに感謝して、大切に神社に祀り、今でも猫たちのお話を伝えています。
と、いろいろなことをお話ししましたが、もしかしたら島津義弘はとにかく猫が好きだっただけかもしれません。
歴史は、知るともっと面白くなりますよ!


